本当に病んでる奴はこんな事しない、だの。
本当に病んでる奴はこれが出来ない、だの。
そういうのやめようぜ、という話。
何かTwitterとか見てると、「本当に病んでる奴は○○出来る(or 出来ない)」みたいな文章が目につくとき、ありますよね。
(一例をあげると、「本当に病んでたらアニメなんて観られない」みたいな)
これを見た際の反応として考えられるのは、「この歌詞自分の事だ……」か、「ここまでの域には到達していないな……」の2つです。
これ、どっちも危険な思考だと思うんですよ。
まず前者の共感してる方から。
こういう形で「お前は病んでいる」というお墨付きを与えるのは、個人的に諸刃の剣だと思ってます。
自分の力だけでは立ち上がれない程に衰弱した人や自責の念が強すぎる人にとっては、確かにそういった外部からの承認が支えとなることでしょう。
気休めにしかならなかったとしても、生じたわずかな心の余裕は行動の幅を広げてくれるはずです。
問題なのは、「自力で立ち上がれたはずの人」を尻込みさせる可能性がある、という点です。
「病む」という行為は、苦しい現状を少しでも軽くするための前向きな道具であるべきです。出来る事を狭める枷になってはいけません。
そもそもの話として、出来る事なら人間は病まない方が良いに決まっています。松葉杖や車椅子などは確かに便利な道具ですが、使わないに越したことはありません。「病む」も同じです。
続いて、後者を見てみましょう。「ここまでの域には到達していないな……」と思う方ですね。
こちらは分かりやすいですね。自分の苦しみに蓋をしてしまう点が問題です。
例えば、あなたが道端で突然転んでしまったとしましょう。
膝には擦り傷が出来てしまいました。泣くほどではないですが、結構な痛みです。
あなたが悲しんでいると、その近くを人が通り過ぎていきました。その人は眼帯を付けていて、腕にギプスを巻き、足には包帯がグルグルと巻かれていました。
素人目に見ても、その人はあなたよりも遥かに重症です。
さて、あなたは悲しむのをやめるべきでしょうか。
違いますよね。あなた達は、治療を受けるべきなのです。
苦しみには大小があり、一つとして同じものはありません。しかし共通点はあります。
それは、「取り除かれるべき」という点です。人間の抱える全ての苦しみにそれは当てはまります。
骨折していないから痛くない? 致命傷じゃないから大丈夫? そんな訳ありませんよね。程度はどうであれそれは怪我です。それぞれに適した処置がなされるべきです。
肉体がそうあるべきであれば当然、精神もそうあるべきでしょう。傷付いた心には治療が必要です。
苦しみの基準を他人に委ねるという事は、その基準を満たすまで笑顔で傷付き続けるという事です。
それは同時に、自分の苦しみの基準を他人に適用してはいけないという事でもあります。故に、最初に出てきた「本当に病んでる奴は○○出来る(or 出来ない)」という文章自体も危険な物だと言えます。
自分が苦しいと感じたなら、それは「苦しい」のです。誰かが苦しいと感じたなら、その誰かは「苦しい」のです。
以上です。
まあでも、一番苦しいのは、クリスマスイブの夜にこんな文章を書いている瑕かもしれません。