世界とは、許可の集合体である


我々には、「生存してもよい」という許可が与えられている。
食べる、眠る、思考する、行動する。
発達段階や身体条件により違いはあれど、現在生きている我々は、それらを「する」事により生きている。
我々が「する」事、つまり「可能である」事とは、全て世界が許可したものである。 それは我々の生存を世界が認めてくれているという事であるが、同時に世界が許可しなければ我々は何も成しえないという証左でもある。

この世界は我々に様々な事を許可してくれてはいるが、それでも不寛容で残忍だ。

世界は、命が生まれた瞬間にそれを己の中へ放り込む。一切の例外なく強引に。
にも拘らず、放り込まれた全員が幸福になる事を許可していない。
光があれば影があるように、誰かの幸せが他の誰かの不幸であるように、許可を出し渋る。

有史以来、我々は知恵と技術を以てその不寛容に抗い続けてきた。
しかし、それでも限界という物は往々にして付き纏う。
どれだけ我々が手を尽くそうと、その手から零れてしまう人間は現れ続けた。

声が枯れるまで助けを求めたが、誰にも助けて貰えなかった人間がいた。
自分が傷付かないために、人を傷つける事しか出来ない人間がいた。
余りの苦痛に、全てを放り出すしかなかった人間がいた。

世界が許容する範囲内でしか我々は存在出来ない。
我々は、我々の意思ではなく世界の意思に従うしかない。
仕方のない事だと諦めるには、それは余りにも理不尽だ。

──では、この世界よりも寛容で、何をしても許される世界は無いのか。

幸せに、安全に、不自由なく過ごせる。そんな理想郷を望むのは本当に傲慢であろうか。

我々は進み続ける。
たとえ誤った方向に歩み続けていたとしても。
結末が塵一つ残らない虚無であったとしても。
その過程と導いた結論は、やがて訪れる死を修飾せしめる物であるが故に。

我々は厭世集積回路。
観測を以て世界を成す者。想像し、探求し、その記録を刻む者。